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イ)はじめに

 今日、マレーシアとインドネシア共和国の国境線は、マラッカ海峡上にある。日本的感覚からすれば、この海峡を隔てて、マレー半島にはマレーシア人が、スマトラ島にはインドネシア人という別個の民族が居住していることになるが、マラッカ海峡は日本の瀬戸内海のようなもので、海峡を中心に同一の文化圏を形成、歴史、言語、宗教、文化の多くを共有している。にもかかわらず、マレーシア、インドネシア共和国と異なる国民国家として存在するのは、オランダ、イギリスといったかつての宗主国の枠組みに今日の両国の成立が影響を受けているからである。

 マレーシアという国のルーツを探すには、植民地的政治的統合体や領域、それらの枠組成立以前の歴史、つまり太平洋とインド洋を結ぶ世界最大の多島海の歴史とその盛衰、就中マラッカ海峡をめぐる交易史、地政学上の位置、インド、中国、ヨーロッパ列強との関係密度から概観してしていくことが手順であろう。

 ここでは「マレーシア古史」「ムラカ王朝とその世界」「植民地時代」「解放と近・現代化」と時代を追って記述していきたい。

ロ)マレーシア古史
 紀元前2世紀、漢の武帝は、中部ベトナムの林邑を征服すると日南郡を窓口として南インドの黄支国との交易をはじめたとの記述が漢籍にある。紀元前後には、天竺(インド)や大泰王安敦(ローマ皇帝アントニヌス)の使者を名乗る者までが、中国に朝貢をしたという。驚くべきことだが中国から地中海にまでつながる海のシルクロードは、この時期既に成立していたということになる。2世紀に編纂されたプトレマイオスの地図では、マレー半島は、黄金の産地として紹介され、「黄金半島」と記載されている。

 今日、ジャワとバリを別として、15世紀ムラカ王国(マラッカ王国)以前の東南アジア島嶼部の歴史的遺構(物)、文献資料は皆無に近く、この地域の歴史像を忠実に再構成するのは難しい。せいぜい、中国、アラブ、インド、ヨーロッパの文献を頼りに歴史的イメージを描くことしかできない。しかし、マラッカ海峡を中心に、洋の東西を結ぶ海洋貿易圏が成立していたことも事実であろう。

 非常に悲観的な言い廻しになってしまったが、熱帯雨林、熱帯モンスーン地帯という東南アジア島嶼地域は、それまでこつこつとき築き上げてきた生活や文化の蓄積を都市や歴史と共に一瞬に洗い流してしまう風土(気候)、有機物を無機化してしまう激しい自然環境の下に置かれ、自らの歴史を語る手段すら奪い取られてきた。しかし、そこに育まれてきた民族性は、定住性を旨とし、共同体の中での位置と関係性を大切にする私たちとは全く異なる大らかな社会、散逸的で自由度の高い社会と文化を形成してきた。それは、農業共同体を軸とする村落・都市形成を計ってきた北東アジアとは全く別の交易都市、特にマラッカ海峡を中心としたモンスーン地帯では、交易都市の萌芽たる港市を誕生させた。ヨーロッパやインド、中国の商船が停泊し、荷物を積み替え、航海に必要な資材を積み、風向きが変わるまで5ヶ月でも6ヶ月でも必要な時間を待つモンスーン航海を満たす港町、商業都市として、この地域の共同体は成立していた。法顕のインド留学記「仏国記」には、耶婆堤、干利などの港市の名称が記載されてる。

 この頃の港市は、先に述べた東西交易の中継港と、金や錫、森林産物や海の食材や宝物などの貿易を目的とする積出港が併存していた。5世紀に至ると、大陸部の林邑、扶南とならんで、盤々、狼牙脩、干利、婆皇、訶羅単等の港市が誕生し、この東西交易にマラッカ海峡は重要な役割を持ちはじめた。それは日南郡−扶南−頓遜−イント半島の横断という内陸ルートより、マラッカ海峡を通過する海洋ルートの方が、大量かつ簡便に運搬できるということで、その軸を移しはじめ、マラッカ海峡側の港市の戦略的位置が増大したということである。その結果、干利に続く赤士、三仏斎といった港市は、この交易を通して莫大な富を蓄積し、王権成立の基盤をつくり、ひとつの文化圏を創出していった。この海洋ネットワークは、外部に常に開かれており、域内各地、アジア各地から様々な文化、文明、宗教、政治制度が到来した。そのあるものは通過し、あるものは吸収され蓄積された。この海洋世界では、流通と生産にも中国人をはじめとする外来者が大きく加わってきた。その結果、マラッカ海峡上の港市群は、コスモポリタンな世界を形成し、多人種が混交する、今日のマレーシア複合社会の基盤が、この頃に築かれはじめていた。(7月23日 南雲晶)

 さて、ここでマレーシアの神話に言及しておこう。日本の『古事記』にあたる史書に『マラヤ編年記』がある。
『マラヤ編年記』によれば、マラッカ(ムラカ)王朝への祖先は、バレンバンのスリ・トリ・ブァナという王族にそのルーツはある。この王族は、アレキサンダー大王の血統にあたり、このるこの王子の出現は『編年記』に次のように語られている。

 「これは、バレンバンの都アンデラスという在所の物語である。ここにエンボク、マリニという二人のお婆さんが住んでいた。二人はシグンタン丘に田畑を持っていた。稲が実ったある晩、丘の頂が光り輝くのを二人は見た。“まあ驚いた。龍の頭の宝石みたいだ。”二人は恐れ戦きながら眠ってしまった。夜が明け、二人が丘へ登って見ると、稲は黄金の穂を垂れ、茎は銀に変わっていた。三人の美男子がそれぞれ白象にまたがってその頂にいた。二人のお婆さんは尋ねた。“どこから来なさった、ここで人間を見かけることはついぞ無いのに・・・・・・”

 “われわれは、アレキサンダー大王の血をひく者だ”

 噂はすぐに都にとどき、バレンバン王は、手厚く三人を迎えた。噂がさらに国外に広まると、ミナンカバウの住民は長兄を迎えて王とし、タンジョン・ブラの民衆が次兄を迎え、末弟がバレンバンにとどまって王となった。
二人のお婆さんは白銀の色をした牛を飼っていた。ある日、神のお告げを受けた牛は泡を吹き、その中からバスという男が現われて叫んだ。

 “見よ、この黄金の国の支配者こそ神の血をひく大王スリ・トリ・ブァナ、その人である”」

 ムラユ神話の世界の基本体系が、この物語に集約されている。と同時にこの世界が記述するのものは、海洋民族ではなく農耕世界であり、イスラム世界ではなくヒンドゥーの世界を具現している。更に、その血統はアレキサンダーの末裔だとしている。アレキサンダーのムラユ語音は「イスカンダール」であり、イスカンダールを名乗るサルタンはムラカ王朝などムラユ世界での諸侯に例が多い。それは神話の域を越えてムラユ世界の常識だったのかも知れない。ムラユ世界のサルタンは、自らをアレキサンダー大王の血をひく世界の三血統の末裔で、インド王、中国王と並ぶ存在と位置付けていた。
ムラカ王朝の始祖スリ・トリ・ブァナが、どうしてこの世に生をうけたかというと、その昔インド大王が東南アジアを攻略し、マラッカ海峡地帯のグラン・ギ国の王女を妻としたところまで遡る。ある時、インド王が中国征服を決意して、シンガポールまで遠征するが、中国側に阻まれる。代わって海底国を攻略した。そこの乙姫との間に生まれたのが、スリ・トリ・ブァナ三兄弟である。だから、インドの血とムラカの血の最初の結びつきは、グラン・ギ国で果たされたことになる。が、これ以上ここでは詳説しない。

 『編年記』では、シンガポールに建国したブァナの子孫がここを治めて、ほぼ80年ほどたって、ムラカへ再度移り建国することになる。だが事実はかなりくい違っている。それは、トメ・ビレス、バルボザなど大航海時代の記録者の伝聞を既に記述した通りである。次章で述べるムラユ世界の実態、政治的・経済的・偶意性とは別にするムラユ世界の心性は、この神話世界が、実証している。