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ハ)ムラカ(マラッカ)王朝とその世界

 15世紀から17世紀の大航海時代にかけての東南アジア島嶼世界は、東西貿易の中継地として、香料を初めとする東南アジア産品貿易最隆盛期を迎えた。その中心を荷ったのが、モンスーン貿易の中継港であり、河川交易の集積・集出港であったムラカであった。

 14世紀から15世紀にかけてのこの地域の覇権は、スマトラ島のバレンバの地にあったスリヴィジャ王国と、ジャワ島のマジャパピト王国の下にあった。

 ジャワ、バリは、熱帯雨林地帯に属したが、多数の火山の作用によって稲作社会を形成し、この地域では、いちはやく王権を確立し、国家と文明を発達させてきた地域である。スマトラ島はインドの強い影響を受けながら北部サムドゥウ(サバイ)を中心に貴重な香料の集積・積出港として発展した。又、8世紀頃からのムスリム商人の渡来、東南アジア貿易の最適の条件(モンスーンの終わり、始まるところ)を満たすマラッカ海峡南端部の港市が注目を集めはじめ、それがバレンバンであった。スリヴィジャ王国はミナンカバウというスマトラ島の稲作地を背景に有し、7世紀から安定的な発展を遂げ、14世紀には、マラッカ海峡を軸にスマトラ島からマレー半島、さらには東南アジア海域全体に影響を与えていた。更に、インドと中国を結ぶモンスーン貿易、アジアの貴重な商品の交易拡大の要求が強まるに従ってバレンバンの戦略的位置が高まっていた。この交易の海の覇権をフリウジャ王国に代わって確立しようとしていたジャワ・マジャハヒト王国は、14世紀末から幾度となく、バレンバン攻略を仕掛けていた。

 ムラカ王国の成立過程は、先に引用した『マラヤ編年記』とトメ・ピレス『東方諸国記』に探ることが出来る。両者を統合すると、15世紀初頭スリヴィジャ王国の貴族パラメスワラが配下の民とバレンバンを出奔し、ピンタン、シンガポール ムアール河口を経て、ムラカに辿りつき港市を形成した、ということが事実であろう。ムラカが王国として成立していくには、いくつもの偶然と時代的好機が折り重なっていた。ところで、マラッカという読み方は英語読みで、マレー語ではムラカ(Melaka)である。マレーはムラユ(Melayu)と読む。この章では、すでに使用してきたが、マラッカ、マレーをムラカ、ムラユと表記しておいた。

 さて、ムラカは1511年ポルトガルに占拠されるまで100年、港市として繁栄を極めた。前述のピレスによれば、ペルシャ、インド、アラブの船が季節風を利用して大洋を渡り、ムラカに集合した。西からの船は東の物資を、東の船は西の物資を積み込み、風の向きが変わるのを待って、帰途につく。この頃ムラカに集散する船は、大型船だけでも毎年百隻を越えていたという。こうしてムラカを結節点とする放射状の交易ネットワークが形成され東南アジア島嶼部にムラユ世界と呼ぶべきひとつの文化圏が形成された。まず、その形成が何を以って可能となったかのかを検証しておきたい。

 既に記述したが、大航海時代へ継ぐ交易の時代とは、モンスーンに乗って走る帆船航海最後の時代で、「季節風の終わり、始まる」ムラカに、港市が形成されたのは地政学上の必然であり、何故マラッカ海峡なのかといえば、中国とインドを結ぶ航路、その距離が最短だったということにある。この航海にはマラッカ海峡経由以外に、ジャワ島とスマトラ島の間のスンダン海峡経由の航路と、バリ島東側のロンボク海峡経由での航海方法があった。地図を一瞥して気付くようにマラッカ海峡経由で航行するより、それぞれの方法で渡れば925キロ、1865キロも多く航海しなくてはならず、マラッカ海峡が、安心して投錨することが出来る、最善の航路だったのである。ムラカ遷都をパラメスワラに勧めたのは、この地海路を熟知していた海洋民スラット人だったと言われており、海賊との折合もそれなりに成立していたと考えられる。又、ムラカが中国語では、満刺加と表記されていた様に、明朝永楽帝との朝貢関係はムラカ王朝成立と同時に成立していたと思われる。鄭和の遠征隊は七度もムラカを訪れ、その寄港がムラカを活気付けたことは言うまでもない。1409年第三回の遠征時、永楽帝は、銀製の印章をはじめ衣冠と衣袍を国王に与え、「碑を建て城を封じてムラカと名付けた。その後シャムはあえて侵入することはなかった、と『瀛涯勝覧』には記述されている。

 明朝のムラカに対する封土は、その南半部をマジャパイト王国に占拠されていたとはいえ、スマトラ島を基盤とするスリヴィジャ王国からの圧力に対する抑止力として働いていた。更に、ムラカにとって好都合なことがあった。というのは、この地域のもうひとつの覇権王国マジャパイトはムラカの影響力の拡大に併せて国内に混乱が生じ、1478年に消滅した。又、明朝は、中国商人の海外渡航を禁止していたため、マラッカ海峡の覇権を確立しながらも中国商人は交易が出来ず、インド、ペルシャ、アラビア、琉球、香料諸島の商船が自由に往来していた。とはいえ、鄭和の度重なる寄港、ムラカが1511年ポルトガルの侵攻をうけるまでの百年間に30回にわたる朝貢使を送っていたことでも判る通り、明朝の保護下にあったといっても過言ではない。鄭和遠征隊は50隻を越える船団、乗組員2万人という陣容でムラカに寄港した。港都ムラカの建設は、明朝との共同作業に等しかった。明朝は、必要に応じて巨船を与え、交易の利益も朝貢の数を重ねるに従って激増していった。この明朝の保護が他の港市よりムラカの名声を高め、より多くの交易船を集める力となった。ムラカと中国との関係は、王朝全朝を通して安定し、ムラカの国際商都としての性格を確定していった。その結果、国際港都ムラカには、東西の貿易船と商人がさらに集中するようになり、東南アジア島嶼部に散在していた香料貿易も、大陸部を含む東南アジア各地の特産物もムラカに集中するもたらせることになった。

 ムラカが、国際港都として世界の注目を集めることになったのは、当時ヨーロッパで金並に重宝されていた香料の大集荷基地として存在していたことと、イスラムの受容に寛大かつ積極的であったことによる。15世紀後半ムラカが隆盛を誇った頃、ムスリム商人の活動網の拡大と共にマラッカ海峡の港市は、ほぼイスラムに改宗していたという。ジャワ北岸、東端部を除いて、東南アジア島嶼部のほぼ全域がイスラム化したと、ピレスは記述している。このようにムラカの交易網がイスラムの拡大にはたした役割も重要である。そして商用の共通用語としてムラユ語が海域に拡大し、ムラカの交易ネットワーク拡大と共にアラビア語、ペルシャ語、ジャワ語などの言語的エキスを加味しつつ、商業共通語としてムラユ語は発展を遂げた。

 この様にムラユ語が通じ、イスラムが信奉される東南アジア海域世界を、一般にムラユ世界と呼ぶ。文字もムラユ語をアラビア文字で表記したジャウィが用いられ、前章に記述した王統記や系譜が作成されはじめた。

 さて、国際港市ムラカは、港によって成立した商業都市である。寄港した船から税を徴収することと、国自体が交易をおこない利益をあげることを以って、その経済は成立していた。しかし、ムラカは移民都市であり、農業基盤を持っていなかったために、経済的安定性を欠き、この国の崩壊を早めることになった。ムラカ交易を実態を概括しておこう。ムラカ交易の主たる担い手は、外来商人であった。時によってサルタンが船主であったこともあろうが、王朝の財政は、みずから主宰する交易収入よりも、輸出入の税収でまかなわれていた。寄生的な経済である。それは、海洋民に貿易の多くをゆだねねばならなかったムラカ王国の成立に根拠を置いている。みずからは、直接に通商活動をしないで、港と航路の安全保護に専念するというムラカ政権のあり方は、外来商人の側からみると、多少の税金が多くかかろうと通商と航海の安全が保障されるならば、ムラカに集中的に荷をおろしておくことが妥当な形態であった。ムラカの繁栄と栄華が築かれたのは、こんなところに根拠を持っていたのかもしれない。と同時に、それは国家としての脆弱性を示すものでもあった。シャムのアユタヤ王朝のような国家管理体制が築かれることはなかった。逆に、港市経営態の連合にすぎない経済システムは、先に述べたムラカ成立の条件が崩れるに従って、その基盤は少しずつ失われていった。1511年、ムラカはアルプケルクの率いるポルトガルに制圧され、さらに1641年、オランダがポルトガルにとって替わった。ムラカ王朝は、ジョホール、リオウ群島を拠点に交易を続けたが、続く植民地勢力との抗争が続き、昔日の栄光は再び満つることはなかった。中国、インド、ペルシャ、アラビアからの商人が蝟集し、栄えたこの港市も、航海技術の発達、商取引とは別の手段で交換を満たそうとする遠来のヨーロッパの船団が覇権を競うなかで消滅していった。

 この海峡は、時代の覇者が栄華を極めた海路であったが、名もない庶民の往来した歴史街道でもあった。ザビエルもペリー提督もバルチック艦隊もこの海峡をへて日本へやってきた。この海峡を渡ったのは、人と経済を満たす物ばかりではなく、西洋と東洋を結ぶ宗教や文化の回廊でもあった。

 明治以降、多くの日本人もこの海峡を通り西洋の文化の吸収に出かけた。不幸にして途上で倒れた人もいる。二葉亭四迷の墓はシンガポールの日本人墓地にある。不幸な歴史にかり出された日本の将兵もここに眠っている。隣のボルネオ島にはサンダカン八番娼館という悲しい記憶を刻む日本人墓地も現存している。そこで彼や彼女たちは何を思いながら“マングローブの海”に沈む夕日の美しさに見とれたのであろうか。(8月1日 南雲晶)


図1、 15世紀のムラユ世界