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大航海時代のムラカ世界、そして植民地支配

 ヨーロッパでは、マルコポーロの『東方見聞録』などに刺激されて、アジアの富や文化への関心が高まっていた。そして、その関心は羅針盤の改良、航海技術の発展、快速船の普及がすすむ中で満たすことが可能となりはじめていた。大航海時代のはじまりである。又、14世紀頃から、肉食がポピュラーになりはじめていた西ヨーロッパでは、香辛料の需要が高まっていたが、その貿易はイタリア商人に独占されていた。ヨーロッパが求めていた主な物産は、ジャワおよびスマトラの胡椒、マルク諸島の肉豆蒄の実と丁香であった。この需要を満たすためにも、独自の交易ルートの確立が不可欠であった。ポルトガル、スペインは、キリスト教の布教と共にこの海洋事業を国をあげて推進しはじめた。ヨーロッパは交易の商品がなかったので、いつも金と銀を持ち出さねばならなかった。しかし、こうした交易は長く続くことはなかった。特に人口も少なく、国力の弱いポルトガルは、どこの国よりも早く、東南アジアとの交易を必要としていた。

 1488年、バルトロメウニディアスが、アフリカ南端の喜望峰に至り、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインド西岸・カルカッタに到着した。ポルトガルは東南交易の魁となった。ポルトガルは、ゴアを拠点にムラカ世界との接触を強めていった。ムラカに限らず、東南アジアの港市は外来者に広く開かれており、寄航者は、所定の税金を納めることを以って、そこでの逗留と商業活動が保障されていた。ところがポルトガルは、大砲を積載した船団でムラカに来航し、交易の独占を試みた。ムラカも対抗処置を講じたが、その組織力、火気の性能は比較にならなかった。しばらくの抗争の末、1511年ムラカは、ポルトガル・アルプケルの率いる船隊に占拠された。ムラカ王朝はジョリオウ群島に落ちのび、海洋民を集めて交易を再びはじめたが、昔日の栄光はなかった。逆にアチェ王国、ミナンカバウ王国など海峡諸国が台頭し、ムラカ、バタビアの植民地勢との抗争は1641年まで百年余り続いた。

 ムラカ王朝の崩壊は、交易中継基地としての機能を第一としたため、強固な国家基盤を構築することがかなわなかったこと。大航海時代の到来にともなって明朝の朝貢体制が動揺しはじめ、ムラカはその後ろ盾を失ったことによる。この結果、マラッカ海峡は、(図1)ムラカを中心とするポルトガル勢 (図2)スマトラ北部のアチェ王国 (図3)ブギス人と共同するジョホール王国の三竦の攻防が繰り返されていた。特にアチェ王国は、1530年代以降、紅海経由で地中海ルートと発展させたオスマンの帝国と交易をすすめ、ムラカがオランダに占拠されるまで抗争を続けた。他方、この抗争の背後には、国是してのキリスト教布教を嫌うムスリム勢が、反ポルトガルの精神的支柱ともなっていた。
 ポルトガルが東アジア交易に参入することにより、中国や日本と東南アジアとの関係が従来以上に緊密となり、交易の世界化がすすんだ。ポルトガルは1557年中国よりマカオに居住区を認められ、70年には長崎での交易も認可され、中国産の生糸や絹織物を日本やマニラで売りさばいた。先に述べたように、中国人商人は、マニラに多く来航したのをはじめ、バンテン、アユタヤ、バタニ、ジョホール、ブルネイなどに寄港した。


図2、18世紀のムラユ世界

  また、16世紀半ばより鉱山開発の進展した日本は、金、銀、銅の生産に邁進し、銀は世界の生産量の三割、銀は世界最大の産出国に成長した。こうした金、銀、銅を入手するため、ポルトガル船や中国船が生糸や絹織物を日本市場に持ち込み、南蛮文化へのあこがれと、世界へ目を開くこととなった。生糸、蘇木、鹿皮、鮫皮などを買い付けるため、マニラ、ホイアン、アユタヤ、カンボジアなどに来航し、東南アジアにおける交易活動に日本も参画することとなった。1635年海外渡航禁止令がだされるまで、三百数十隻に朱印状がだされ、これらの町に日本人町が形成された。

 オランダは、東インド会社をもって、ムラユ社会のスルタンと専売契約を結び、安定した価格の安い取り引きを確保した。確保した香料は、インドのコロマンデルやモスリンや綿布、中国の磁器や絹織物と交換され、東南アジア海峡諸国の富を潤した。オランダは、ジョホール王国と連合してマラカを、1641年占拠し、ムラユ社会での交易権を得、経済権益の確保を第一とする政策を採った。

 しかし、経済を第一とする政策といっても、オランダもポルトガル同様、交易の独占を目的とし、政治的、軍事的圧力の下での交易の推進をするもので、低価格での強制供出に近いものであった。オランダはムラカを攻略したもののその目的は、ムラカをバタビアの支配下に置くことにあった。というのは、バタビアの支配下に置くことにあった。というのは、バタビア(インドネシア・ジャカルタ)は、マラッカ海峡のみならず、スンダ海峡をも傘下に置く地政学上の優位にあったからである。航海技術の進歩により、スンダ海峡は南アフリカの喜望峰からアジアに結する港都として、その重要性を増していたからである。ちなみにマラカはオランダがムラカ世界を支配するに従って、凋落し、その影は薄くなっていった。再びムラカが脚光をあびるのは、スエズ運河の開通と中東における石油の大量発見である。

 続いてオランダは、南スマトラのパレンバン、ジャムビの胡椒の専売権を強引にもぎとってしまった。1670年代末までには、この地域で交易していたヨーロッパ商人は、インドネシア海域から消えてしまったという。こうして東南アジア海洋諸島の香辛料の独占的取り引き権を確立したオランダは、丁香と肉豆蒄の世界唯一の供給者となった。
 アジアで受け渡した莫大な数量以外に、オランダ東インド会社は17〜18世紀間、丁香を年間1400〜1800トンもアムステルダムに輸送し、マルク諸島におけるその価格の25倍の商いをしていたという。しかし、この政策はその昔裕福であったこれらの諸島の住民を貧しくしてしまい、人々は厳しい生活を余儀なくされた。そればかりか、この諸島でのインド製綿布の販売を破壊に追い込んでしまった。オランダ東インド会社に打撃を与えたのは、ヨーロッパでの胡椒の価格が暴落したことと、アメリカと同盟していたオランダの海軍がこの戦争の中で破滅的な打撃を受け、船舶や通商活動が機能しなくなってしまった、ことになる。これ以降、イギリスがこの地域の制海を握り、1748年、オランダとの平和条約を調印した。この結果、オランダ東インド会社は破綻し、1799年に解散した。

 かかる世界貿易の展開は、封建関係の分裂と資本主義の登場を可能とした。ムラカが最盛を誇った15世紀までのヨーロッパは、アジアに対して物質的に大きな遅れをとっていった。しかし、ポルトガル、オランダ、スペインのこの地域への参画と共に、不平等な交易、強権的な収奪を通して、ヨーロッパは産業革命の基礎を築き、日の没することのない大英帝国の基盤を形成した。これに対して東南アジア海洋諸国は、スルタン専制を脱却出来ず、技術や思潮の面での停滞を余儀なくされ、イギリスの植民地支配を許すこととなった。(8月31日 南雲晶)

 
<続く>